三重県剪定伐採お庭のお手入れ専門店 剪定屋空
1月19日
空はどこにまでも広がっている
ちょっと青空を見るたび思いだす
そんな庭屋になりたくて
今日も三重県のお庭に
お庭や樹木に対する想いは十人十色だと思います。
「手入れをざっとやってほしい」「適当に短かく切ってサッパリさせて欲しい」
このようなご要望は、すべてお断りしております。
お客様と私達の相性というモノも、とても大切だと思っております。
必ずしも、一人ひとりのお客様に合ったご提案や、お手入れが出来るとは思っておりません。
お庭や樹木に対して、心あるお客様のお手伝いが出来たらと思っております。
私達の考える「庭師」とは「庭志」
庭の仕事を愉しみ、丁寧に出来る志を持つことだと考えています。
「お客様のお庭、樹木に触れさせていただいている」そのことを心に留め、決して奢りや傲慢さを持つことなく、お客様気質な考え方が出来る「庭志」を目指しております。
飯島 一郎 (いいじま いちろう)
1982年2月10日生まれ
東京都大田区生まれ
三重県三重郡菰野町在住
東京都立大森高校定時制卒業
在学中にブラジルに語学留学 アマゾン川沿いにあるホテルで住み込みバイトをしながら大アマゾンに触れる
@アマゾン旅行記 ブログ ブラジルの空
帰国後、ブラジル料理のレストランなどで働く。
その後、友人の誘いで三重に来て、そのまま地元には帰らず三重に移住
三重県の造園会社で修行
2015年2月に独立 剪定屋-空-を立ち上げる。
趣味:素潜り、廃材を利用した巣箱作り
好きな場所: 海、ブラジル、西表島
飯島 良江 (いいじま よしえ)やるときやる 型
愛知県豊橋市生まれ
豊橋ファッション専門学校卒業
服の販売から服のお直し、製造管理など、服飾関係の会社で働く。
服飾の仕事に区切りをつけ、単身で沖縄県西表島へ来島。ホテルで調理見習いとして2年間働きながら、壮大な自然を身体いっぱい感じて過ごす。のちに夫となるパートナーと運命的な出会いをする。
現在、剪定屋-空-の手元アシスタントとして日々楽しく奮闘中。
屋号
剪定屋空 センテイヤソラ
代表
飯島 一郎
所在地
〒510-1326 三重県三重郡菰野町杉谷2304-1
電話番号
TEL: 059-340-7479
メール
info(at)senteiyasora.com ※ (at) は @ に置き換えて下さい
受付時間
営業時間:朝8時~夜6時 定休日 日曜日
創業
2015年2月
事業内容
保険
三井住友海上 損害賠償保険 業務災害保険 労災保険
各種加入済み
顧問
税理士法人フラッツ・コンサルティング
2020年で三重県に移住して、8年目を迎えました。
三重県に来るきっかけとなったのは、ブラジル人の友人の誘いです。
当時、三重県四日市市に住んでいた友人に、「三重は良いところだから、一度遊びにおいでよ」と誘いを受けて1週間ほどの滞在予定で、友人宅に泊まりに行きました。山や川、海などを案内してもらい、自然に恵まれたとても良いところだと感じました。
滞在期間の最終日の記念に、鈴鹿川へ連れて行ってもらいました。
友人家族と共に川遊びを楽しんでいた時です、私の人生を左右した出来事が起こりました。
なんと毒蛇のマムシに噛まれてしまったのです。
私が川を泳いでいると一匹の蛇が近づいてきました。
まさか蛇が川で泳いでいて遭遇するとは思っていなかったので、身の危険を感じとっさに手で追い払おうとしてしまい、左手の親指と人差し指の間を噛まれてしまいました。
「少し痛いな」というぐらいだったので、休めば治るだろうと安易に考え、河原で横になっていました。
しかし、痛みは治るどころかどんどん増してきて、噛まれた部分から腫れも広がり、腕もパンパンに大きくなってきてしまい、友人と話し合った結果、これは病院に行った方が良いという判断で近くの病院に連れて行ってもらいました。
腕の腫れも相当ひどくなり、色はマムシ柄。
結成も打てない状態だったので、このまま腫れが広がり、毒が肩をこして、首まできてしまうと命は保証できない、手遅れになる前に万が一、毒が肩を越しそうになったら腕を切断する可能性があります、と医師に宣告された時、初めて事の重大さに気付きました。
普段つねに陽気な友人が、今まで見たこともない真っ青で険しい表情を浮かべ、治療室に入ってきたのを目にした時は、死も覚悟しました。
しばらくして気を失ってしまい、次に意識が戻った時には重篤患者が集まる集中治療室にいました。意識がもうろうとする中、自分の体を見回すと色々な管がついていました。
看護師さんに聞くと、身体に水を取り込み毒を尿から排出させ、強制的に循環させていく処置を行なっているということでした。
パンパンに腫れた腕には、複数本の線が引いてあり、マムシの毒が徐々に肩に向かって広がっていることを示していました。
入院中は「自分が死ぬかもしれない」という状況で、いろいろなことが頭を巡り、自分と向き合う時間になりました。
自分にとっての「まさか」の出来事が続き、今このような状況になっているのには、何か意味があるのかもしれない、噛まれたのが滞在期間の最終日だったこともあり、もしかすると、三重にもう少し居るように示されているのではないか、と考えるようになりました。
幸いなことに、腕の腫れも危険なラインを越す直前に収まり始め、腕を切断することもなく、無事退院することが出来ました。
全期間で約1ヶ月ほどの入院で済んだのは、病院に連れて行ってくれた友人や、医師のおかげだと感謝しています。
冷静になって思い返すと、あのとき蛇が近づいてきても、こちらから何もしなければ噛まれることはなかったと思いますが、当時は蛇に対してとても無知な部分があり、危険という認識も薄かったので、軽率な行動をとってしまったと心から反省すると同時に、無知ということは恐ろしいことだとつくづく実感しました。
退院後しばらくは、友人の母親の家にホームステイをさせてもらいながら、工場の仕事や、土木、万古焼の工場などで働き、まずは一人暮らしの資金作りから始めました。
一人暮らしを始め、今後のことを考えながら町並みを見ていると、戸建住宅には必ずと言っていいほどお庭があり、職人さんが脚立を立て、お手入れをしている姿が良く目にとまりました。
そこで昔、造園業界に興味を持っていたこと、ずっと働いてみたいという思いがあったことを思い出しました。
職人の世界で、私みたいな者が通用するのかという不安があり、ずっと挑戦出来ていなかったので「今こそ挑戦してみよう!」という思いが大きくなり造園会社の面接を受け働かせて頂くことになりました。
もともと自然が好きなのもあり、造園の世界に入り、すぐにのめり込んでいきました。
働いていくうちに、自分で造園の仕事をしてみたいという気持ちが強くなり、2015年に独立をしました。
妻との出会いは、日本のアマゾンと呼ばれている西表島です。
2人とも三重県に来る前は、西表島で働いておりました。
西表島は、沖縄県八重山諸島に属する島で、島の半分がいまだ未開拓なため、壮大な美しい自然を感じることが出来るとても素敵な島です。
私達にとって、とても思い入れのある日本の第2の故郷です。
20歳の頃、南米アマゾンへ行くための練習として西表島へ訪れたのが始まりです。
当時は島の情報も少なく、今よりさらに自然が豊かだったので本当に貴重な体験ができました。
その後、ブラジルアマゾンへ2度の挑戦を果たし、アマゾンへ心を奪われたまま
20代の締めくくりに再び西表島を訪れ、働きながら滞在していた時のことでした。
私はサトウキビの収穫をする「キビ狩り」という季節労働を終え、その後は居酒屋で働いておりました。
働き始めてすぐ、お客さんとしてお店に入ってきた女性、それがいまの妻です。
最初に目が合った瞬間「この子と結婚するんだろうな」という予感を感じました。
しかし、厨房担当だったこともあり、話す機会はあまりありませんでした。
それから午前中の仕込みが終わった後、昼間に居酒屋の前のベンチで休憩していると、前の道を通り過ぎる彼女の姿を見かけました。
私が働いていた居酒屋の位置が彼女の職場と寮の間にあったらしく、彼女もホテルの調理補助をしていたので同じような時間帯で行動しており、午前中の仕事を終え寮に戻る時と、夕方出勤する時に良く会うようになりました。
挨拶と一言ふたこと話すだけでしたが、徐々に距離は近づいていきました。
後々聞くと、彼女も初めて目が合った時「この人と会ったことがある気がする」と感じていたとのことで、お互い単純に好意を寄せていただけだと思いますが、偶然が重なり縁になったことは奇跡的だったと思います。
私が三重県に来たときは、まだ彼女は西表島で働いており、連絡を取り合う程度の付き合いでしたが、西表島での仕事の契約期間を終え実家の愛知県に戻ると聞き、隣の県だったこともあり会う約束をして再会することが出来ました。
それからすぐに交際が始まり、ちょうど独立する間際に入籍する運びとなりました。
仕事があるかも分からないし、食べていけない可能性も十分にあることも伝えましたが、それでも携わりたいと言ってくれたので、二人で「剪定屋空」を始めました。
わがままも言わず、分からないことだらけの自分についてきてくれたことは、感謝の気持ちしかありません。
「独立して食っていけるわけがない」「何も分かってない」など散々言われ、その言葉を振り切っての独立への道。
何とかやってみせる!と意気込んだのは良かったのですが、案の定、最初の1年は自分の仕事など全くありませんでした。
鋏以外の道具も持っていなかったので、申し訳ない話ですが、脚立は、お客様の庭先に眠っていた壊れた脚立を購入させていただき、チェンソーは農機具屋さんにレンタルさせてもらいながら、ひとつづつ道具を揃えていきました。
便利屋さんと掛け持ちで働かせてもらいながら、団地の緑地管理や、河川敷の草刈りを手伝わせてもらい、なんとかやりくりして金銭的にも余裕がない中、造園業の厳しさ、自分で商売をすることの難しさを痛感し、手探り状態が続きました。
気持ちだけは強く持っていたので、どうにか自分の仕事を作れるよう造園の勉強と同時進行で、経営や集客など様々な方面の本を読み、お風呂に入っている時も、何をしている時も常に考え、寝る間も惜しんで勉強しました。
諦めず、試行錯誤していき、時にはお客様から学ばせていただき、徐々に「剪定屋空」としての仕事が増えていきました。
また同じ経営者の立場ということで、お互いの仕事で出てきた悩みや課題を共有し、話し合えたことで大きく成長出来たと思います。
それぞれの強みを生かして助け合える仲間も徐々に増え、
「剪定屋空」の仕事だけで成り立つようになっていきました。
刈り込み鋏という鋏一本だけでの独立。
今思うと無謀な挑戦だったと思いますが、諦めなかった気持ちと、仕事を任せてくださったお客様、仲間のおかげで今があると思っています。 多くの仲間に支えられ剪定屋空は今日も三重県のお庭にお伺いさせてもらっています。
2020年で「剪定屋空」は6年目を迎えましたが、毎年違う課題が挙がり、まだまだ自分の知らない事がたくさんあり、日々勉強させていただいております。
今までの人生の中で、これだけ人に必要とされたことはなかったと感じており、これからもお客様や周りの仲間に感謝して、心から大切にしていきたい思っております。
学ぶこと、改善していく手は緩めず、情報のアンテナを常に張り、まずは自分達の土台をしっかり作り固めていき、自社だけが良くなる仕組みではなく、「三方良し」の志を胸に、私達に何が出来るのか、今後も自問自答し、勇気を持って行動に移し、進化し続けていきます。