木地師とは、主にとち・ぶな・けやきなどの広葉樹を伐り、轆轤(ろくろ)と呼ばれる工具を使い、椀や盆など円形の木地を作る職人のことをいいます。
ほとんどの木地師は、良材を求めて人里から離れた深山に入り込み、良材のある間その山で生活しつつ職業を営み、良材がなくなれば家族全員で新しい山へと移住する「漂泊の民」でした。
木地師のことを調べていくと、惟喬親王(これたかしんおう)伝説が真っ先に出てきます。
惟喬親王は第55代文徳天皇の第一皇子として誕生しとても可愛がられていましたが、異母弟の惟仁親王(これひとしんおう)が立太子したため皇位継承の機会を失い各地を転任することになります。その後、病で出家し京都の小野という地で隠棲され54歳で亡くなったとされています。
ところが惟喬親王の後半生については、これとは異なる説が伝わっているそうです。
その伝説とは、惟喬親王は即位の座を失ってから都を離れ数人の側近とともに滋賀県の小椋谷(おぐらたに)にたどりつき亡くなるまでの19年間を暮らしました。その間に、木ノ実の抜け殻から「木地椀」を着想し、法華経の軸が舞うのに想を得た親王は「轆轤(ろくろ)」という工具を発明し、この地の住人にその技術を教えました。
のちに技術を伝授された木地師たちは、この周辺の木を伐り尽くしてしまったため、良材を求めて全国各地へ小集団に分かれて散らばったというものです。このような伝説がいつ頃から木地師の間で語られたのか詳細は分かりませんが、少なくとも江戸時代には全国の木地師の間では、惟喬親王こそ職業の祖であり、奥永源寺の小椋谷を自分たちの遠い祖先の地であると認識して活動していたようです。
小椋谷には、惟喬親王を祀る蛭谷町の筒井八幡宮(現:筒井神社)、君ヶ畑町の大皇大明神(現:大皇器地祖神社)があり、それぞれ筒井公文所・高松御所と呼ばれる木地師支配所の一翼を担うとともに、木地師の信仰の聖地となっていきました。
これら支配所は、すべての木地師は自らの氏子であるとして、氏子狩り(氏子駈)と称し役人を各地へ派遣し木地師を訪ね歩き、氏子料や初穂料ほか名目をつけて木地師から集金しており、その見返りとして支配下の木地師の確認を終えると支配所から神札や艦札(営業許可証)、どこでも通行してよいというお墨付きを与える天皇の綸旨などの文書を配布し様々な方法で保護・統括していたようです。これらの文書は森を漂泊していた彼らにとっては「パスポート」であり「戸籍謄本」でもあったため利害関係が成り立ち明治時代まで全国最大の木地師集団の支配組織が確立されていたようです。
この伝説には、ファクト(事実)とフィクション(創作)が入り組んでいるようで、この国に轆轤をもたらしたのは、木地師が祖と仰ぐ惟喬親王ではなく、秦(はた)氏ら渡来人である、という説もあります。今回参考にさせて頂いた桐村英一郎氏著の「木地屋幻想」や熊野市歴史民俗資料館発行の「森の漂泊の民 木地師ーその伝承としごとー」や木地師関連の本を読み進め、森の漂泊の民へ想いを馳せつつ、現代の森が良くなるヒントを探していきたいと思います。